奨学金を無償給付型にすることの是非

若年層の奨学金問題が注目を集めていますが、7,686億円と膨大に膨れ上がった第二種奨学金の残高が社会に様々な悪影響を与えはじめています。奨学金を返済できない人が続々と増加しているなか、20代の若者は返済で消費や結婚を控える傾向があり、奨学金の存在が長期にわたるデフレや少子化の遠因にもなっているのです。

そのような状況のなか、奨学金を無償の給付型にしようという話が出ていますが、税金で給付型の奨学金を導入するのはおかしな話です。家庭の経済的な事情により進学をあきらめ、高卒で働いている人がいる一方、その人たちの納めた税金が同世代の遊び呆けている大学生の奨学金に使われることになってしまいますし、大学ビジネスという特定の業種へ税金が流れるのは不公平といえます。

また、既に苦労して返済を終わらせた就職氷河期世代からみれば、現在の大卒者の就職率は改善されており、かなり恵まれている状況にあります。マイナス金利が導入されている超低金利の時代でもあるため、利息の負担も軽微なものにとどまっており、特に返済が大変な時代というわけでもありません。就職氷河期世代には派遣村ができるなど大変な時代もありましたが、現在の若年層は少子化による労働力不足の影響もあり、総じて就職率の面では恵まれているともいえます。

なぜ無償給付型の奨学金問題が注目を集めているのか?

これは主観にはなりますが、無償給付型の奨学金の導入については大学側からの要望が強くなってきていると感じております。そもそも、奨学金は学生のためという側面がある一方、最終的には奨学金が流れる先の大学経営のためでもあるのです。大学ビジネスにおいて、学生は授業というサービスを購入してもらう消費者にすぎず、そのサービスを奨学金という高額なローンを組ませて払わせることで成り立たっているビジネスなのです。

最終的に学生は高額なローンを組んで大卒者という学歴を得ることになるわけですが、大学全入時代に入った現在において、大卒の学歴には高額な費用に見合うほどの価値はほとんどありません。昭和の時代までは大学を卒業してよい会社に就職すれば、数百万円程度の奨学金ならすぐに完済できるという暗黙の了解がありましたが、小泉政権下の派遣法改正によって、そのような社会構造は既に崩れ去ってしまいました。

就職しても返済できない奨学金が社会問題化しつつあるなか、今までのやり方では大学経営が立ち行かなくなってきたため、給付型奨学金の導入で税金にたかろうという意図が見え隠れしているのです。奨学金がなくなって本当に困るのは学生ではなく、定員割れで廃校となってしまう大学経営側なのです。学生にとってみれば、借金を背負ってまで大学までいくよりも、すぐに就職してしまった方がよほどメリットがあるといえます。

少子化により市場規模が縮小しているにも関わらず、授業料は高止まりしており、廃校数も増えないというのはおかしな話です。まずは無駄な大学、特にいわゆるFランと呼ばれる算数もできずに補講しているような私立大学を廃校にし、無駄な学校と教員の人員はなくすべきです。給付型奨学金を導入する前に、まずは大学経営のスリム化によって授業料の低額化をはかることが急務と思われます。

大学授業料を平均40万円~50万円程度に抑えることにできれば、無償給付型の奨学金など導入する必要はありません。

奨学金といえば、学生のためのものというイメージで巧妙にカムフラージュされていますが、最終的にうるおうのは、奨学金で高額な授業料でも払ってもらえる大学経営者や教員、職員、天下りにこそメリットがあります。これまでは学生本人に高額なローンを組ませることで無理やり成り立たせていましたが、それが限界をむかえてきたら今度は税金で対応するというのはむしのよい話です。

仮にもし税金で対応するのだとしても、別途に法人税を導入して給付型奨学金の財源にすべきだと思います。なぜ法人税なのかといえば、企業側にとっても大学教育を受けた質の高い労働力が市場に供給されることで恩恵を受けているわけですから、その社会的なコストを負担すべき立場にあるのは当然といえるでしょう。いずれにしても、奨学金の社会問題はすべて団塊の世代が悪いわけですが、少なくとも就職氷河期世代には負担のかからないように配慮して頂きたいものです。