日本で奨学金はスカラシップ(scholarship)と翻訳されていますが、実際は学生ローン(student loan)と呼ぶのが実態に即しています。
欧米での「scholarship」は学生への贈与型の資金援助を指しており、卒業しても返還不要というのが一般的です。欧米で奨学金は成績優秀な生徒にしか与えられないため、「大学でスカラシップをもらっていた。」などといえば、周囲から一目置かれる存在になります。
つまり、「大学で奨学金をもらっていたこと」は優秀な人材であることの証であり、1種のステータスといってもよいわけです。
けれども、日本の大学を卒業して欧米で就職する際、「日本の大学で奨学金(scholarship)を受けていた。」などとはいえない暗黙のルールが存在します。これは日本での奨学金は(scholarship)ではなく、単なる貸与型の学生ローン(student loan)であるという特殊が事情が存在しているからです。
そもそも、なぜ奨学金を贈与するのかという点でいえば、社会に国家百年の根幹を成すのは教育であるという考えが根付いているからです。長期的な視野でいえば、国家にとって最も重要なことは、道路などのインフラを整えることよりも、国民の教育レベルを上げることが最重要課題であるという考えが根付いているといえます。
そのため、欧米では優秀な人材へ学費を贈与することは当たり前のことであり、それが社会全体にとっても利益があるという共通認識があります。かつては日本でもそのような教育を重視していた時期があり、明治時代に先人が欧米の知識を学んだからこそ、日本は近代化に成功し、現在の豊かな日本の礎になったといえます。
けれども、現在の日本における奨学金といえば、返還の必要がある貸与型のタイプのみです。概ね、借りたものは返すのが当然という考えの人が多いですが、教育は国家を支える最重要事項であるという認識が失われつつあります。
本来、欧米のように贈与型を奨学金と呼び、貸与型のものは学生ローンと呼ぶべきですが、日本ではたとえ返済が必要であったとしても奨学金の名称がつけられています。日本の奨学金なるものは、正確にいえば、学生向けの無担保・低金利金融(要保証人)であり、グローバルスタンダードにおける奨学金とはまったく異なります。欧米とは違い、日本では返済が必要なうえ、利息まで払う必要がある点で大きな違いがあるといえるでしょう。
昨今、18歳から選挙権が付与されることを受け、各政党では若年層へ歩み寄りの動きがみられており、返還不要奨学金の創設や所得連動型返還制度の導入、あるいは学費の軽減化などが政策へ盛り込まれてきておりますが、そもそも奨学金とは返還不要であるのが当然なのです。
近年、有利子である第二種奨学金が増加傾向にありますが、これは親の世代が失われた20年の就職氷河期世代にあたるため、非正規雇用に付いている人も多く、子供を大学に進学させるだけの経済的な余裕がないことが大きな要因といえます。
一方で、大学ビジネスにおいても、少子化社会における若年層の人口減少に対応して学生数を確保しつつ、廃校を免れるためには受け入れ数を上げる他ありません。結果として、成績に関わらず、望めば誰でも進学できる「大学全入時代」に突入はしましたが、経済的な理由で進学できない学生をも確保するには、学生を奨学金漬けにして学費を調達させるより他ありませんでした。
これがいわゆる「大学経営の貧困ビジネス化」といわれるゆえんですが、膨大に貸与残高が積み上がった奨学金がどこに消えたのかといえば、最終的には学費として大学に渡ったといえます。また、大学への天下り官僚についても、大学が廃校してしまったら天下り先が減少してしまうため、退職後に高額な報酬を得ることができなくなってしまう事情があります。
学生本人と親、大学ビジネス、天下り官僚、そして原資となる資金を投入する投資家など、それぞれのステークホルダーが複雑に絡み合った結果、現在の奨学金の社会問題化が出てきたともいえます。また、学生を受け入れる企業側にとっても、入社した人材が高額な奨学金の返済で簡単には退職できなくなるため、安い給与での長期的な雇用の実現が可能になり、人件費の抑制につながっています。
結局、国債残高1,000兆円に加え、未来ある学生にも奨学金で膨大な借金を背負わせている団塊の世代が諸悪の根源といえますが、年金の国家100年安心プランはあきらめるとしても、国家百年の計で対応すべき教育分野までビジネスの対象とすべきではありません。最近、国公立大学における人文学部系の統廃合なども話題になっておりますが、目先の利益にとらわれず、長期的な視点で人材を育成することが求められております。